うん。
うまく表示できるかな?
日本語のような何か。
【シックウルトラplusXのあの白いヤツの話】髭剃りは首振 らない二枚刃派。
【シックウルトラplusXのあの白いヤツの話】髭剃りは首振らない二枚刃派。
髭剃りはシックのスーパー2を使ってる。
首振りヘッド?
アレは良くない。
狙ったところに届かない。
なまくらだろうが何だろうが狙ったとこに刃が当たらないとストレスじゃん。
ブレードにこの程ウルトラplusXを買ったのだけど、今日はその話。
シックのスーパー2っていうともう既に数十年前の物ですが、首振らない派としてはコレ一択。
貝印とかも出せば買うのだけれどディスポーザブルな物ばかりで買いたくても買えない。
刃はもう少し流通量のあるシックウルトラの後継、ウルトラplusXを使ってる。
というか、使い始めた。
ウルトラplusシリーズは二枚刃の上に刃を滑らすヌルヌル板が付いているのだけれどそのヌルヌル板の成分が変わることで何となく銘柄も変わっているっぽい。
よせば良いのにヒアルロン酸なんかが採用されたり…
んで、ウルトラplusVにてそのヌルヌル板が割と早く脱落する事案が発生しておりまして、ウルトラplusの某Amazonのコメント欄がヌルヌル板の話で持ちきりに。
対してウルトラplusXになって件の「ヌルヌル板」の話は希薄に。
よし!
という事でこの程買って見た次第。
切れるカミソリの刃ってのは気分が良いものでシャワーの際に鼻歌交じりに使うこと3回。
アロエ特有のヌルヌルが顔を包み込み何となくうまいことソレてるなって気分とともに、いつまで経ってもヌルヌルで微妙な気分に。
まぁ、でもヒゲはいい感じにソレてるし問題なし。
よし、今日も1日がんばるぞい!
そう思ってスーパー2を手にとって気づく。
「ヌルヌル板」がブレードの上に無いwww
ウルトラplusVで発生してた「ヌルヌル板」取れる病は、引き続きウルトラplusXでも健在の模様。
自慢の二枚刃の上にはもうヌルヌル板は無いのである!
ただね、アレ、特に必要無かったので、無くてもいいかな?ってね。
Amazonで騒がれないのが何と無く解った。
あの「ヌルヌル板」微妙な気分になるし、何と無く不潔な感じだったしなwiPhoneから送信
洗濯できるダウンを洗ったらダウンがダウン。
Facebookとの今後の付き合い方。
Facebookは素敵だなぁ。
と思ってたのですが、通知を追っかけたり友達の輪を広めたりして、更にそのタイムラインを追っかけたりしてると凄く凄く不毛な感じだなぁ…とシミジミ思えてきた。
基本、どこか行って美味いものを食う写真とそれに対するいいねの嵐。
それはそれでいい。
誰かのどこかはとても幸せ。
いいね!
うん。
まぁ、いいんじゃね?くらいの「いいね」。
でも、僕にとっては、こうやって物事の関係性とか、明日の出かける先を考えたりする時間の方が幾らかイイ時間だったりする。
時間を忘れて散歩したりさ。
対話を楽しんだり。
どの魚がうまいかスーパーで悩んだり。
で「いいね」を押した先には「いいね」が帰ってくるわけだが、双方向のやり取りが「いいね」で済んでしまいそこから踏み込むことが意外とないなとも。
どうやらその後のやりとりが予想できて面倒になったり、相手の顔写真や奥さんの顔写真を見ながら「あぁ、踏み込むほど仲良しじゃなかったんだ」と相手の人間との関係性が急にアヤフヤになったり。
そもそもは、お腹と背中、前と後ろのある人間、多面的ペルソナがある人間が全部フラットに、しかもFacebookでいいねを押した順に適当に「仲良し」として陳列されているあの空間。
(アレは暴力だよな。)
今風のデジタルなやりとりっぽくはあるのだけど、その実、表層を上滑りするだけであまり意味のあるものにならないのでは?と。
あのインターフェイスとタイムラインは偶然というものに弱く日々を退屈なものにしてしまうようなそんな気がしてきたのさね。
【ひとこと評】
mixiのはじめの頃は出会いが多く楽しめた。
ツイッターは拡散には良いが継続的でない。
はてなブログ界隈は左巻きが多く都会的でない。
LINEは田舎的距離感が嫌で対話も雑な感触。
Facebookの距離感は都会的だったが軽薄だ。
今となってはFacebookのMessengerだけを使うのが合理的だと思えている。
別にSkypeだってイイ。
おた、LINEはあの緑色が嫌いだ。
1日24時間しかないのだし、過去に離れた友人達と再度つるむのもどこか気味が悪かったり。
会いたいなら連絡して有意義に過ごしたいじゃないか。
目の前にいる人とのさしでのやりとりを大切にしよう。
おそらくそこまで考えている人は少ないのかもしれないが、もうちょっと気を払えば良い生活にぐっと近づくのでは?と。
Facebookは住所として有ればいい。
積極利用はもうやめよう。
(仕事でも最近では拡散用にしか使ってないしね)
そして僕はiPhoneを取り出しFacebookの通知を切ることにした。
インバウンド需要は飛んで行く。
インバウンド需要を見込んでドンドン稼いでトリクルダウンで最終的にみんな潤う。
インバウンド絡みで色々話は出てますが、一回りしてちょっとインバウンド絡みの雲行きがあやしい。
インバウンドとトリクルダウン。人が日本にザンザク来て経済がぐるぐる回れば「おこぼれ」で周りも潤う。
従業員は給料が上がりその奥さんも笑顔、笑顔。…と言う事に、なったか?
久々の大型なインバウンド需要の波≒「爆買い」。
そう、ムーブメントとして終わってしまった「爆買い」に関して言えば、途中から「中国人が買いに来て→中国人が経営する免税店で買う。」と言う構造になり日本に居ながら日本人には旨味は落ちない構造になりました。
「中国人が買うのだし、漏れ出た利益も中国人に還元される」と言う中華思想的な方向に落ちたのか、基本的な利益は中国人の中で循環する形に。
商魂たくましい隣国の彼らを相手にするのだから、こう言う状況になるのは予め予想できたことなのだけれど、少し日本のお花畑具合いが酷いよなと。
まぁ、それでも「おこぼれ」が落ちるのは最初期にはあった気もするので、それらを目当てにと言うのもなくは無い。
ただ、それっぽっちじゃ経済を回すのなんて夢のまた夢。
これから「インバウンド需要を」と言うなら特に観光で有ればスイスに学べばイイのでは?と思ったり。
彼らはおこぼれでなく、キッチリ売りを打ち出して、利益を逃さないでいる。
何が売れて何に満足しいつお金を払うのかが計算されている。
そこに対外的な勢力が付け入る隙を与えない。
商売のサイクルがどう回るのか、どこで利益を出すかをキチンと抑え結果を出す。
ギリシアも手本としてはイイと思う。
あの国は観光こそ全てで、物価を上げて商売していた国だ。
ギリシアには価値がある。
そう宣誓していた訳だ。
ギリシアが国として破綻、失敗したのは為替を自由にする権利を放棄し顧客と同じユーロの通貨圏に入ってしまったことだが、まぁココではその話は置いておく。
歴史に学ぶ。と言う言葉の通り2020まではこんな事が何度となく思い出される事になるだろう。
そうなる前にキチンと手ぐすね引いて待っていなければならない。
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づらせばイイってもんでもないらしい。
アートと自慢話と普遍性についての備忘録。
アートと自慢話と普遍性についての備忘録。とめどなく出てくる主張がアートかなと最近思う。
そこには、文字にしづらい主張なのか、何かがある。
とめどないならオナニーみたいなものなのか?
否。
アート自体は何かの代替行為ではない。
僕の目指すアートに関しては多分対話が重要。
そして、もうひとつ、作品として適度に愛され、捨てられない、破棄されない運の良さも必要だ。
「主張してやまない」という意味では「ご老人方おの自分語り/若い人への説教」があるだろう。
アレもとめどなく流れる何かのひとつでは有る。
聞き手が居て内容が有れば語り部として持て囃されるが、多くはそうはならない。
パッションを元にして主張をするという意味で構造は良く似ている。
が、アートじゃない。
差から考えるに、作り手はとめどないパッションで突き進み、受け手の側のココロに響く訴えるものが有る。
そう、受けての対応も含めインスタレーション的にやりとりが行われてはじめてアートかと。
でないと、老人の一方通行の説教もアートになってします。
(古びた現代アートという評価も出来なくはないが…)
だから、コミュニケーションの行方として、お金を出して買って帰ってもらう。ってのはアリなのではと思う次第。
いい受け手に出会えるか?もポイントっすね。
んで、次は存続の話。
かつて、大学進学の推薦を貰うために成績表の良し悪しが問われる時期が有り、性的な…精子の絵を凄い勢いで努力して描いて、意味もわからないくらいのパンチのあるものに仕上げ、それを女性のおばちゃん先生にぶつけた友人がいたが、それが元で推薦が無くなったw
僕は推薦枠の無い国立、北大を目指してたので、傍目からニヤニヤしてたが、人生を賭けたパワーシュートが折れる音ってのは有るなとシミジミ実感した。
間違いなく印象に残る、今で言う北陸新幹線のカラーリングで青を少し紫に転ばせた中を怒涛の勢いで彼の熱いパトスは突き抜けてるんだなぁ(傍観w)という素晴らしい一枚だったが、既に推薦の話はオジャンになってたことも分かっている状態でその絵は返却され、返却されたその日にそのアツイパトスをほとばしらせた作者はその絵をビリビリに破いて捨ててしまった。
(残念ながら現存はしない。)
他者とのコミュニケーション、ていう意味では老人の説教とは存在を異にするこの事案。
支持される人を持つ可能性を高めるという意味で、多くの人に見てもらい、存続し続けることもアートの構成要素と僕は考える。
そう考えると、彼の描いたあの人生を賭けた絵は良いデキであったもののもの、瞬間に爆発して散る危うく、儚いもので有るなと僕の目に映った瞬間でもある。
まぁ、なに、せっかく描くんだし、題材は選ぼうぜ。
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電車の旅から路線バスの旅へのスイッチは有るのか?
電車の旅から路線バスの旅へのスイッチは有るのか?
北海道から帰ってきた。
今回比較的多く路線バスに乗った。
北海道、路線バスの旅。
うん、蛭子さんが出て来そうな響きだし、浪漫を感じる人もいるだろう。
だが…無いな。
バスの旅は非常に厳しい。
バスの運転荒いし、それどころかバス停が分かりづらすぎる。
電車で乗り過ごしても一応駅舎が有ったりするが、バス停は看板のみが多いしな。
沖縄のバス停については廃止したバス停を残しておくのに問題が有ったが、冬の北海道は夜が早い割にバス停に明かりが1つもない。
バスの本数は電車よりましだが…
そして、バス停を他社の乗務員は知らない。
聞いても大丈夫じゃね?ってレベル。
昨晩の釧路空港行きのバスに乗ったのだが
「はっ!何かおかしい!!」
と野生の勘を働かせ一瞬で「ココは違うぞ」と何かを悟り片側4車線の道路を対向車線にスイッチしたらギリギリ乗れた訳で。
時間通りにきたバスに乗ったら別の路線とか、とにかく不案内極まり無いので、どうにも旅行にはおすすめできない。
こう言うのを解決するのはARとかなんだろうけど、どうなんでしょう。
昨晩は結局大楽毛駅前からバスに駆け込んでリュックを担いだまま腰ひねった体制でシートに収まるかたちでこのテキストを書いた次第。
それくらい初見殺しであり、ハードな旅程になることを実感。
路線バスの旅?
ないなぁ…
と思った次第。
(テレビのはロケハンきっちりやってるファンタジーだ)
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