アートと自慢話と普遍性についての備忘録。

アートと自慢話と普遍性についての備忘録。とめどなく出てくる主張がアートかなと最近思う。
そこには、文字にしづらい主張なのか、何かがある。
とめどないならオナニーみたいなものなのか?
否。
アート自体は何かの代替行為ではない。
僕の目指すアートに関しては多分対話が重要。
そして、もうひとつ、作品として適度に愛され、捨てられない、破棄されない運の良さも必要だ。

「主張してやまない」という意味では「ご老人方おの自分語り/若い人への説教」があるだろう。
アレもとめどなく流れる何かのひとつでは有る。
聞き手が居て内容が有れば語り部として持て囃されるが、多くはそうはならない。
パッションを元にして主張をするという意味で構造は良く似ている。
が、アートじゃない。

差から考えるに、作り手はとめどないパッションで突き進み、受け手の側のココロに響く訴えるものが有る。
そう、受けての対応も含めインスタレーション的にやりとりが行われてはじめてアートかと。
でないと、老人の一方通行の説教もアートになってします。
(古びた現代アートという評価も出来なくはないが…)
だから、コミュニケーションの行方として、お金を出して買って帰ってもらう。ってのはアリなのではと思う次第。
いい受け手に出会えるか?もポイントっすね。

んで、次は存続の話。

かつて、大学進学の推薦を貰うために成績表の良し悪しが問われる時期が有り、性的な…精子の絵を凄い勢いで努力して描いて、意味もわからないくらいのパンチのあるものに仕上げ、それを女性のおばちゃん先生にぶつけた友人がいたが、それが元で推薦が無くなったw

僕は推薦枠の無い国立、北大を目指してたので、傍目からニヤニヤしてたが、人生を賭けたパワーシュートが折れる音ってのは有るなとシミジミ実感した。

間違いなく印象に残る、今で言う北陸新幹線のカラーリングで青を少し紫に転ばせた中を怒涛の勢いで彼の熱いパトスは突き抜けてるんだなぁ(傍観w)という素晴らしい一枚だったが、既に推薦の話はオジャンになってたことも分かっている状態でその絵は返却され、返却されたその日にそのアツイパトスをほとばしらせた作者はその絵をビリビリに破いて捨ててしまった。
(残念ながら現存はしない。)

他者とのコミュニケーション、ていう意味では老人の説教とは存在を異にするこの事案。
支持される人を持つ可能性を高めるという意味で、多くの人に見てもらい、存続し続けることもアートの構成要素と僕は考える。
そう考えると、彼の描いたあの人生を賭けた絵は良いデキであったもののもの、瞬間に爆発して散る危うく、儚いもので有るなと僕の目に映った瞬間でもある。

まぁ、なに、せっかく描くんだし、題材は選ぼうぜ。

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