いま風の繋がりかたと欠陥と接し方をさぐる

出逢いと別れ…
ヘビーな響きだが、現実から目をそらしては成らない。
そう教わってきた。
僕もずいぶんいろいろな別れがあったし、もう二度と会えないなんて思ったこともあったり。
だが、インターネットがコミュニケーションに介在して以来、物理的なコミュニケーション障害は減ってきている。
それだけに対応できる幅が広がり、やる気と暇と軽い設備かコストがあればぐんぐんコミュニケーションは広がることを知った。
世界の裏側とテレビ電話…
いま、そんなのは普通だよな。
で、人間が耐えられなくなってるようにも思う。
コミュニケーションのオーバーフロー。
砕いて言えば一頃前のミクシイ疲れ。
ネットがあれば、距離や時間軸を飛び越え繋がれる…。
浮気だなんだが手軽になってモラルという尺度も破綻…。
規範は無いし液状化した底無しの足元を大地だと信じて滑り行くしかない。
大人もいないし、大人は我慢する人になっていったり…
10代の娘とコミュニケーションをとってると、ずいぶん面白いことになってんだなと実感する。
何もかも「早い」
盛り上がらない時代の熱くない若者の絶望的なスピード。
踏み違えれば、デバイスに記憶された「言葉足らずな思い」が迷走し放題。
酒飲んで暴言吐きまくるよりたちが悪い日常があるんだろうなぁ。
あと、早いやり取り、話が盛り上がらないことを察知すればメールは無視してイイってものもあるらしい。
なるっ。
コミュニケーションの途中に耐えられなくなって殻にこもる子は、早さ対応の弊害なのかもな。
(老人と話すのはモハヤ不可能なのかも)
マルチスレッド、分散クラスタリングしかも「早い」。
冗長確保、自己安定は確保しながら猛スピードでコミュニケーションの火花を散らす。
だが、外から見れば「集中力の欠如」だ。
結論を導き出す突貫力に掛ける部分も旧来型と同じ熱量が使われるならあると言える。
その反面、傷つかなくていいバランスも備えられる。
だが、そんな余裕もなく、絶えず何らかのコミュニケーションから対応を要求され続けるわけだ。
面倒くさ…。
選択肢が多いし、早いから面倒だろうな。
対応したくても対応がうまく行かなくなるとディスコミュニケーション=「ぼっち」化するんだろうな。
ついて行けなくなったガッコの授業みたいに、周囲のコミュニケーションはぼっちを置いてきぼりだ。
(そこにはまだ解決策はあるんだがそれはまた今度)
つらいなら、敢えて断絶を選択するのもイイだろう。
進んで断絶はパワーがある分流されてぼっち化したより増しだしな。
断絶を選択できればよいが、実際にはそれも中々難しいだろう。
殊更いまのコミュニティは意外に従来コミュニティよりネットのシステムが助長してネバついているように思う。
いま実社会にいる僕らの仕事も確かに無数のメールのやり取りの上に成り立っているけど、
彼女らのそれは、更に子細なピングの打ち合いの上に成り立っているんだろう。
ピーキーで日常的かつ強靭なコミュニケーション力…
彼女らに学ぶ今の生き方、プロトコルを見習うべき時が来てるのかも知れない。
まねっこでもしないよりは増し。
結局えせプロトコル、バーチャルプロトコルといったところで閃きや面白さは多分半減以下だろうけど、やらないよりは増し。
ジャンプでもショートカットでも決めてやる。
距離は進めば縮まるし、その辺りに僕の居場所がありそう。
そな気がするんだ。
メディアが2000年を境に圧倒的に増えた今だから意外にドメスティックな方向に向かってるなって流れを最近感じている。

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