そこには暮らしが在る。

写真を撮るようになって、
はじめは、友達の笑顔と写り慣れない気恥ずかしさや、凛とした気持ちを写していたように思う。
まだ、技術も金もなく、まぁ今も技術も金もそんなにはないのだが、
それだけに良い写真、初々しい写真が撮れていた。
途中色々迷ったが、デジタル一眼を手に入れて少し気が晴れた。
どんなにとっても誰も痛まないし、
どんなにとってもフイルムの終わり、あのギュッとくる巻き上がりがない。
これは、写った絵がわからないから、持てる技術をフルに出そうとする、写せる枚数が全然少ないから必至に構図を考える。
そんな銀塩カメラとの対局にある状態とも考えられる。
2本撮ったら休憩して場所を変えようか?
なんて会話も無くなったし、写真に対する向き合い方はずいぶんとかわったのじゃないかと思う。
いまは、かなり慣れた。
当時写るんですを持ち歩きひっきりなしに写真を撮り歩いていた頃と同じ感覚でデジタル一眼を持ち歩く。
だから、撮るのはスナップが多く。
それでいて、街の風景や、人々の動きが好きだから、
そういう写真がどんどんと増えていったように思う。
夕日や日の出は実は好きじゃない。
一日の多くは日が照っていたり、日が落ちていたり、
暗かったり明るかったりだ。
そして、ギラギラと光を拡散する巨大建築や、
人々の泣き笑いもそういった都市ともにある。
夕暮れを写す名手、それも仕事になるだろうが、
僕は生活や都市の中で息づく何かを撮っていきたいと思う。
街の中には、広場や緑も在り、都市を離れれば植物や虫、動物もある。
そのコントラストやあり方は、生活に緩急をつけ、気持ちよい暮らしを形成していると思う。
僕のできる事は少ないかもしれないが、
また、夕日や朝焼けを時折老いたくなる事も在るかもしれないが、
それでも、平時の中の美というか、ありふれた日常の中の良さを追っていきたいと思う。
驚いた事に、地球の裏側では平時も美の讃歌を謳歌しているところも在り、北の果てでは、燃える空を一面に敷き詰めるのが割と日常なのだと言う。
僕の日常は都市の中に埋没したものかもしれないが、それはそれで良いものだと思いたい。
少しの間、写真をいろいろと出していこうと思う。
旅の写真が今は多いから東京のグレーばかりでは無いのでご安心いただきたい。
いつか、思い出すときも在るだろうし、そのとき考えはまたかわっているかもしれないが、今はこの都市の中の生活が好きだし、
人々の何気ない歩く様などを撮り続けていければと思う。
今日から、少しづつ撮りだめたものを公開していこうと思う。
気になるひとは、足を運んでくれればと思う。
この春もどこかにいくし、夏も、秋も冬も動き続けるだろう。
そんな中で心の機微を込めて色々公開できていければと思う。

有償か無償か。

以前はPCソフトのベンダーの宣伝部門にいたために、
ソフトの有償か無償かと言う話は少し気がかりなところでもある。
リッチなソフトしか通用しない世の中になりつつもあり、
たとえば、ケータイでも業務用アプリでもなんでも高度なものが
求められるようになってきている。
そこで、オープンソースなどの取り組みで無償の環境と言うのもずいぶんと増えては消えている状況になってきている。
オープンソースは不安ではあるが、かといって有償のオフィスソフトが本当に業務に必要かどうかと言う質問に対して非常に疑問にも思う。
PIMは?オフィスは?グループウエアは?
と考えると、リスクもそこそこに大きいが、フリーのオープンソースや、グーグルなどのものでいいんじゃないかなと思う。
写真に関しては、可能な限り有償で安価なものを使う。
ドメインなどにもお金はかけていいと思う。
その線引きはどうするかと言うところになるのだと思う。
当方の線引きは
・将来自分の所有するコンテンツだと主張したいもの、またはその公開場所。
・それがないとどうにもならないもの
・そのソフトでもハードでも作った人に敬意と賞賛をあげたいもの
と言う感じでお金を払うことにしている。
必要な場合はソフトをきちんと買い、
必要かどうかきちんと見極める。
この辺をフェアにやらないと、作者のビジネスを破綻させることになる。
これはシェアウエアなどでも同じだと思う。
仕方ないので払うと言うよりは、敬意とともにコストも捻出する感じだ。
では、フリーのものは?
・フリーなものでどうにかなるもの
・アップデートが早いWebなどのサービス
・広告的に人を引き込めるサービス
・検索やコミュニケーションに使うサービス
・面白そうなもの
そんな感じだろう。
おそらく、グーグルが無ければ仕事の多くは成立しないだろうし、
メールもGmailなどが無ければかなり不便な部分が発生するだろう。
検索に関しては、頼らざるを得ないインフラであり、
今後人づてのweb2.0以降のfacebookの様なサービスが
横行したとしても、検索はし続けるだろうし、
この状況に乗っかっていくしか無いんだろうと
ある程度の覚悟は決めている。
まてよ。
覚悟を決めないとフリーなものは使えないのか…?
と言うとその通りだろう。
覚悟を決めねばならぬもののはずだ。
そう、覚悟を決めて全面的に乗っかってしまうことが、フリーソフトやオープンソースに乗っかっていく
この感じこそフリーウエアを使う醍醐味かもしれないし、根底に必要な気構えなのかもしれない。
マイクロソフトかアップルかと言う一時期騒がれた物騒な争いも、話も近いものがあったのだけれど、もっとオープンソースは別の次元にあるものだとおもう。
その決断や覚悟がかなり以前のフリーソフトの世界よりも決めやすくなってきているようにも思う。
気づけば、Macもウインドウズもブラウザはfirefoxだし、サンダーバードなども利用している。
open oficceやneo oficeなども利用するようになってきている。
まぁ、Linuxについては以前使ったことがあるだけに、尻込みもしている部分がある。
flashやイラストレーターがキチンと利用できるようになれば考えてもいい。(まだその時期ではないようにも思う。)
あと、必要とするものと言えば、写真現像ソフトくらいだろうか。
ココ数年MacOSXのバージョンアップだけはしているが、Macはコレからも買っていこうと思う。
そう、アップル製品は嫌いではない。
これは、好きなベンダーには残ってもらいたいと言う税金の支払いのようなものだ。
そう考えると、ずいぶんとパソコン周りはお金がかからなくてよくなってきたんだなと思う。
要するに、お金がなくても身近なところでとりあえず必要なサービスなどは、誰かがお金を払うことで
無償でどうにか提供されてしまう関係やビジネス手法が成り立つようになってきたのだと言うことなんだなと。
おそらくエンタープライズな会社は必要に応じてビジネスソフトを買うように社会的になっていくけどパーソナルな部分ではどんどんお金がかからない、もっと違うビジネス。つまり、検索した先、検索で一緒に出てきた広告などでもうけることをし、サービスを利用する人から搾取はしなくなる。
もしくは、囲い込みやマーケティングのためのソース収集の為に自由に利用させる。と言う状況になっていくのだろう。
つまり、気軽に乗っかってしまえば、個人としてはお金がかからない世の中になるわけだ。
気をつけなければならないのは、サービスが停止したときと、マーケティングソースを自分たちが捻出している存在になっていると言うところだろう。
それらがヤバいと思うなら、使わないことだ。
あと、サービス提供会社のクライアントが必要とする情報を生み出さなくなった次点で、(マーケティングモルモットとして有効な存在で無くなった場合だ)たとえば一定の消費に加担しない人間になった瞬間にその無償の世界から急にほっぽり出されるかもしれない。
ということも気にしておくべきかもしれない。
(用済みになった黒幕が真の黒幕に消される様なぎとぎとした状況だ。)
さらにいえば、その「消される」状況は群集心理に影響を与えないような方法、周囲には認知されない状態で
ある日突然実行されることになるのだろうとおもう。
近年騒がれていたグーグル「はちぶ」の個人版がやってくるのかも知れない。
カードを持っていない、とかアカウントをあまり使ってないとか、何らかの足切り線をもうけ、
それ以下の人間は検索ができないようになるとか、フリーなサービスが受けられなくなるとか。
ある日突然、グーグルカレンダーが真っ白になっていて、ログインさえできなくなるとか。(おそらくそこまであからさまにするのではなく、もっと静かに消え去る様なかたちになるのかも知れないし、もっと別なところに情報を売るすべを彼らは考えだして、サービスは奇妙な基盤の上で成立し続けるのかも知れない。)
無い話では無いと思う。
当方としては、フリーなサービスはどうも気が気で無いところがある反面、テクノロジーの進化に乗っかってみる面白さもあるので、今のところは使っている。
これから先、気が変わることも多々あるだろう。
サービスが心配になったり、嫌な気になったり。
まぁ、そうならないように、自分にとって重要なものは、自分でコントロールできるようにしておこうとは思う。
あと、そうはいってもお金はものを言うところもあるので、しっかりと使うべきところに使えると様にとっておこうとも思う。
いまは写真や絵を描くことが重要だと思う。
だから、コミュニケーションに必要なパソコン周りはしばらくまだおろそかなままでいいかなと思う。
それと時間は重要だと思う。
時間とお金は意外と相関関係にあったりもするので、
その辺をきちんと見極めながら、うまく自分の時間を作り出しやりたいことをやっていこうと思う。

つきすすむ、男坂。

神田神保町の男坂。
以前、高校の頃だろうか、兄が近くの大学にいっていたこともあり、
確かこの坂を登ったかした記憶がある。
もうそのころの男臭いイメージの校舎は無くなってしまい、いまはきれいさっぱり新校舎。
どうなのだろう、時代の流れということもあるのだが、古い校舎、思い出の場所はできるだけのこしてみては。
幸い私の出た学校は古い校舎もそのままに拡張政策をとっている。
しかし、当時の芝生のきれいさは今はなく、少々寂しい思いを出かけてみて味わった。
そう、時間なんてたってしまうもので、
建物なんてどんどん無くなっていくもので。
ただ、加速していくこんな時代だからこそ、
何かかわらないで、きちんとしているものがあってもいいように思う。
写真は変わらないだろうか?
それはわからない。
だが、いい思いで、すてきな出会いがあった際に、
僕は写真を残していきたいと思う。
いつか思い出す日に、そんなすてきな思い出があったことを。
僕は、その素敵なことのいくつかを伝えていければと思う。
いつか、いつの日か。