その靴は!

原宿系な女の子
上は黒のニット
下は白に黒の水玉ロングスカート
後楽園で前をエスカレーターで登ってく…

靴が、靴の形と色がボーリング場の貸し靴そのもの…
ライトグリーンと緑と白にワンポイントでピンク…
完璧に一致!
いゃ、何かの罰ゲームなのか…な?

読了「夜は短し歩けよ乙女」森見登美彦

誕生日プレゼント?な一環で友達が読み終えた本をそのままもらった一冊。
「四畳半神話体系」の作者の別な作品だと。
あのノイタミナ枠のあの絵柄の作品は「海月姫」も含め苦手で
まぁ小説は違うかな?と期待して見て見たわけだが、予想通りちょっと趣味ではなかった。
男パートはまぁ、モテない男(しかし顔はまぁまぁ)が紆余曲折、という感じは良くわかるが、敢えていま貴重な時間を割いてそんなモテない男の悶々話は読みたくもない。
ヤバいのは女の子パート。
女の子の思考が現実的でなく、夏目漱石の偽者がネカマをやってるような違和感があり
女の子ライクな女の子に仕上がっていなかった。
可愛らしい女の子ってのは7割方3歳くらい迄に自分の価値に気づいている。
僕はそういう女の子が好きだしとんちんかんな娘はあまり好みじゃない。
あと、中学くらいまでに旧字体の夏目漱石をかなり読んだ身からすると夏目漱石的な回りくどさがアタマくる。
ということで「くちに合わなかった」というところだろう。
大学生時代は小説より劇的で面白い暮らしをしてたし、高校も果たして毎日がお祭り状態だった訳だし、青春に夢を持った文学青年が読むにはちょうどよい一冊だと思うがおよそ倍生きてる人間からすると、ちょっと違うかなと。
あと、この作品は時代背景がぼかしてあるけど、実際はケータイもパソコンもある現代のような気がする。
いまそんな奥ゆかしい恋愛が有るのかが疑問なとこ。
オタクな文学青年であってももうちょいマセてるんじゃないか?
もっとスナック菓子やカップラーメン的で構わないから早くて楽しいのが読みたいなと思った。
そんな感じだ。

アトリエ

大学時代の住みかは、住まいというよりアトリエだった。
まだまだひよっ子な頑張って自分の住みかを作る途中
趣味に生きる日々を過ごした結果
布団と衣類、レース用の自転車や機材以外は
幾つかのキャンバスと油絵のセット、Macとカメラ、フィルムだけになった。
イーゼルが6本くらいあり、やることがない分気が向くと絵を描いていた。
もっとも家にいる時間は今以上に極端に少なかったので大きなことは言えないが
断片的に覚えているその生活はチープだけどいい生活だったように思う。
いま、まさにまたそんな生活に憧れているような気がする。
ガジェット類とか諸々があるけど、全部捨てちゃってイーゼルが3本くらい立ってる生活(ちなみにいまは2本立ってる)にカムバックアゲインかな?
地デジ化はしないでテレビはモニタ化しようかと。
ニコニコ動画やユーストリームやYouTubeもあるしテレビよりやりたいことをやろうと思う。

新宿西口から歩いて帰宅中。

なんだか、今年は昨年以上に若い浮浪者が多い。
しかも原発停止以来なぜか夜なのに照明がかなり消えてる状態だし
(中野区レベルの暗さ)
やる気どころか治安まで低下するんじゃないか?って様相だ。
景気が悪いのがラジアルに吹きだまってるが、夜の電気くらい景気良くやってもらいたいものだ。

大変がバラバラにやってくる。

仕事は面倒だったり大変だったりする。
ただ、それら面倒や大変は普通なことだが、それらが共振したり奔流になるといよいよヤバくなる。
ヤバくならないようにする対処方法は実はある。
・予定をしっかりたてる
・コミットする順位を設ける
・なるべく同系統の仕事にだけ取り組む
・将来の目標を設ける
・ひとつづつ、手近なものから片付ける
・情報の整理を怠らない
・誰か別にできる仕事は別なひとに任せる
…要は仕事の基本的な話だけど
乱戦状態に成れば成る程しっかりセオリー通りにこなしていく。
現状、いまの仕事場ではやりたい仕事とやらなきゃならない仕事とがごちゃ混ぜ状態。
しかも業域、ジャンル、メンバー、クライアントの有無、代理店の有無、見積り、請求業務などがバラバラな状態になっている。
しかもどれも直近の納期だ。
うーむ。
考えても始まらない。
家帰って水飲んで寝るぽ

メーカーが運用するオフィシャルFacebookアカウント考

Facebookは友達とやり取りするには良いメディアだと思う。
ただ、ちょっと違う運用の話を今回はしたい。
会社のオフィシャルアカウントを現在運用しているのだけど
運用て思うのはオフィシャルアカウントの運用ならではのFacebookの辛さがあるなということ。
Facebookにはどうやら見えない掟、取り決めがあるようで、ある程度付き合い方が定型的な部分を纏いながら進行していく。
友達依頼と一緒にメッセージをだしたり、あいさつを返したり、コメントにいいね!を押したりと小さな見えない取り決めはボロボロと作業的に出てくる。
知ってる友達にならそこまで気を使わないけど
見知らぬファンには「いいね!」しておきたいのが節度ある大人の判断。
とか気取って言ってみるわけで…
で、人数が増えてくると個人で対応をしていると、ちょっとしたカオスになって来る。
「いいね!」を押しコメントを書き込みたい面白い話がそこここに登場。
人間の処理を上回る数の話題がストリームには流れ続け、次第に翻弄されていく。
その流れは激流ではなく、スローな流れなのだがTwitterとくらべ話が濃厚になる傾向があり、静かに、しかし大きな力を持ってオフィシャルアカウントは突き動かされ気付けば足元は話題の奔流に持っていかれる…。
しかも実際に会話してる相手はメーカーのオフィシャルアカウントをよく思うかは別の話。
オフィシャルアカウントが友達ってのも頭をシャキッとただして考えると少し変と言えば変だしなぁ…。
まぁ、そんな訳で「どう対処するか」明確な答えはいまは無いのだけど、ぬかるんだ足元を見ながら後れ馳せながら運用について考えを持って行動を改めようと思ったわけ。
FacebookをはじめSNSの世界には正解が無いだけに、しかもそんなセオリー不明の世界にいるメーカーのオフィシャルアカウントという稀な存在を運用する事になった訳だから、小さなチームだし潤沢に人的リソースはないし考えて行動しないと時間は過ぎていくから、自分たちでとれる最良の解答を考えてみようと思う。
いまはその問題提起といったところか。

分岐点、世界線の切り替わりを思う。

ずーっと生きてると人生の分岐点にぶち当たることがある。
その分岐点は覚えている限り成功とかではなく抗えない暴力的な進行の中にある。
分岐点と言うよりいま流行りの言葉で言うところの世界線の切り替わりとでも言うのが良いのか…
覚えているだけで6歳の頃、13歳の頃、21歳の頃、28歳の頃に通常の感覚とは違う揺さぶりの様な感覚を受けている。
そしてそれ以外は衝撃を受けても視界が変わるようなインパクトはない。
それら瞬間瞬間に世界線を踏み越えるような何かスイッチのような境界を踏み越えていま僕はここにいる。
選択は良かったと思う。
いまは中々シビアだが面白い。
ただ、可能性としての違う僕がそこらには有ったろうし、ちょっと興味もある。
後悔とかではなく好奇心ベースでの話。
あなたにはどんな分岐点が有りましたか?