スピードの測り方の変化がこの20年の軌跡な気がする。ワープを軸に考えてみた。
速さと言うものの概念がこの20年でガラリと変化した様に思う。
「この回線は100MB/bpsだ。」
こんな文章は今となっては不思議でもなんでも無い概念だ。
1996年だと認識はできても良く分からない話だったのかも。
確か…
「64、64、128!」
とやってた頃だ。
ISDNが凄い速いと思っていた。
100MB/bpsのイーサネットはまだだったかな。
スピードと言えば150km/hといった感じで速さとは距離に関わるものだと思えていた頃だ。
東京〜大阪間を5時間で移動できる速さ。というのが想像できる世界。
そして、その距離を超える速さに未来があった。
ワープに意味があるとして、距離を超えるスピード技術としてのワープ。
それはとても素晴らしいこと。
そして、昨今の「速さ=めかた」の世界にもまたワープの概念はフィットする。
離れた場所にリンゴひと山を転送するワープ。
動画が見れる速度のパケット量を通すのに充分な速さを持つ回線。
ここに来てやっと実社会においでのスピードの定義が身近になったということかもしれない。
100MB/bpsも150km/hも解るわけだ。
仕事してるひとだと1人月なんて単位もあるけど、仕事ひと山のボリューム的スピード。コレは建設業などで比較的古くからある概念だが、この考えなが一般化したという風に見るのも良いかもしれない。
ワープってのは「めかた」的にも「距離」的にも物理スピードの先端にある様に「思う」ワープってのは人間の認識力の取り合えずの限界点にあり、そのさきが何なのか?をまとめている気もする。
バックトゥーザフューチャーのようなものかな?
そう考えると、スピードの側面にもう一つ「めかた」「距離」以外に「時間」が存在することがわかってくる。
しかし、時間は不可逆だったりするからワープやスピード、タイムスリップに対して人は浪漫を持つことになるのかもしれない。
めかた、距離は可逆であるのにスピードは費やしてしまえば不可逆。
概念世界では自由に増減できるのに現実世界では不可逆。
ここら辺にスピード、速さの認識しづらさがあるのかもしれない。
20年掛けてやっと認識できた気もするが、こんなの小学生の扱うこと概念だよなと少し気分を害する自分もいる。