SNSなどへの適応は一部産業の衰退と圧倒的な支配的構造を作る

メディアはマスメディアからグッと小さくなりTwitterやFacebookなど発信する場所は個人にも広く提供されるようになった。
ブログは既に話題の維持と拡散のしずらさから一般人のメディアではなくなってきている。
TwitterやFacebookは短文で良いから受け入れられる。
で、掛け持ちが面倒になるとワンソースマルチユースを始める。
一度の投稿をサービス連携させとくことで使い回す。
Twitter→Facebook→mixi
Facebook→Twitter
などなど。
タンブラーなんかが絡むと更に複雑化。
解ってる人が割りと若い層に多く、人がそのままメディアになるわけだ。
それがニコニコ生放送の生主だったり、ブロガーだったり、普通の人だったり。
面白いことにメディアと言えば広告が表裏一体なのが当たり前なのがいままでの世の中だった訳だが
仕事でマス的にメディアを扱えなくなって以来、メディアと広告は表裏一体ではなくなった。
面白いコンテンツであっても請求しないから必ずしもお金は落ちない。
スポンサー広告はプラットホーム提供者にほぼ全て落ちていく。
(Facebookがそれ。)
その原資であるクライアントが払う広告費は話題作りの外注費レベルに落とし込まれる。
つまり、払う側も出さなくなり、出せる額が少なくなり、コンテンツを作る側もカネに頓着しなくなる。
これがナショナルクライアントでも大体認識が同じになる。
(効果測定が吉と出れば良いが…)
プラットホームは潤うかもしれないが、サーバ運用費など経費もあるし、(面倒を背負わないためにも)黒子に徹するからてこ入れなどを買って出ることは少ない。
で、何が起こるかと言えば広告産業の破壊凋落かなと。
コピーも80年代にあったような面白いもの練られたものはなくなる。
極限られた人にしか届かなくて良いし、今よりもっと簡単で受け入れられやすい、しかも一過性のもののようになるはず。
メディアがマスでないから洗練は不要、間違いなくスッと届けばそれでいい。
仕方ない。
あとは、検索キーワードに対する広告や即時的、継ぎはぎなマッシュアップなどでの情報提供ではなくなり、タイミング、場所、相手の属性などに向け示唆的なレコメンドが主流になる。
人はサイトやネットに関わらずショップ、コンビニのPOSレジなどにライフログが吸い出され、財布を中心に飼育されるようになる。
誰が勝つかは明白で、その勝ちに対して対抗する手段は物々交換でもしないくらい恐らくなくなる。
(物々交換はギリシアやアルゼンチン辺りでは実際に起こっていたりするが、インフレ対策であり経済活動からは抜け出ている)
僕がこの文章を投下しても大した波風はたたないだろうし、情報として流通できるかどうかの選択権は既に彼らの側にある。
対策は無くはないが大きな勝利を得るには時間が経ちすぎた。
個人レベルの予測に関しては無料で投下するのも勿体ないレベルなのでここではこの辺りに留めるとしよう。

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