総武線、雪で止まる。手段としての写真を考える。

水道橋でのパーティの帰り、総武線がストップ。
23:30を回り、切羽詰まった感のなかオロオロする人々。
雪国では考えられないだろうし、南国でも考えられないこと。
キリンビールの麒麟みたいに知らないモノは解らない。
共有が体験として無いから言葉や絵じゃ伝わらない。
(俳句の句会などで良く話題になる)
写真は、デジタルになってから意味合いを広めたと思う。
写してすぐ公開も夢じゃない。
コミュニケーションや芸術というより視覚体験を共有する手段として。
写真は人に近いメディアにランクアップしたんじゃないだろうか。