知らないところにもドラマはある。

あなたの知らない部分、道ばたや、それこそブロック塀の割れ目にさえドラマは在るのだと思う。
ただ、足を踏み入れて出会ってみるまでは、全く認識外の事で、
それらは、一生であわなくても、
それらはそれらで幸せにやっているんじゃないかとも思う。
袖振り合うも多少の縁。
ココであったのも何かの縁ですからと一枚撮らせていただいた。

12月が去れば

12月、小さい頃から苦手だ。
ディズニーランドやクリスマスと言うのはどうも苦手なのかもしれない。
まぁ、昨年の年末と考えると、あまり良いものではなかったが、
意思表示をもったということでは良いものだったのではないかと思う。
そんな年末だった。
それくらいしか言う事は無いようにも思う。

夕暮れを追う心境

夕暮れを見ると、シャッターを切ってしまう。
条件反射のようなもので、僕はあまり夕暮れが好きじゃない。
少しセンチメンタルすぎるし、
少し思い出の中に引き戻されるようで、
澄んだ空気の中、知らない街の人々の乗る車を見届けながら、
彼らの生活を思い浮かべながら、泣きそうなくらい奇麗な空を見る。
仕方ない、シャッターをきりまくろうじゃないか。
納得の行くまで対峙する。
センチメンタルというステレオタイプなものにではなく、
僕の中にある、まだ純真だった頃、
北海道に憧れて走り回った頃の気持ちに似た何かを思いながら、
今できる事、
シャッターを切る事に心を馳せた。

花を撮ると言う事。

花を撮ると言う事。
これは、気づいたひとだけの楽しみだ。
花を植える事、花を育てる事、花を贈る事、花をもらう事に等しく
そして、花を撮る事は少しだけそれらより心躍る狂気の世界に近い。
花を見ると興奮に近い何かが起こるのだろう。
昆虫や動物たちに花粉をつけて行動してもらうように
草木は自分たちに花をつけた。
俺らはそれを喜んで眺める。
どこか、誘惑されていると言うか、
なにか、感じ入るものを彼女らは持っているのだろう。
古くからそれらを友好の印や、愛のささやきに添えて持っていった訳だが、
写真で撮ると言う行為は、その草木の頑張り、
彼女らの生命をかけて行動している謀略の一番最たるところを
映像として忠実に切り取ってしまおうと言う事なのだろう。
もう、むちゃくちゃだ。
たとえば、求愛をしている必至のペアリング現場を写真いとっているようなもの。
相手が人間だったら、ぼこぼこに殴られても仕方が無いかもしれない。
けなげに花を咲かせる彼女らを前に。
俺らは何をやっているのだろう。
もう、さっぱりわからない。
しかしだ。
しかし、シャッターを切ってしまう。
これは彼女らの仕掛けた罠の別の方向性なのかもしれない。
彼女らのいた事、彼女らの姿を俺は忘れないし。
彼女らの姿を世に見せて、少しでも心打たれるようにしむけ、
彼女らを見つけたときに保護するようにする一助になっているのかも知れない。
俺は、彼女らに片棒を担がされているのかも知れない。
まぁ、同じ担ぐ片棒なら、奇麗に撮ってやりたいなとも思う。
ふと通りかかった、たまたま通りかかった山形のサクランボ園の道の中をひたすら歩いているときに、この小さな花に出会う。
およそ、花弁は一ミリ大しかないけなげな花、風にそよぐちらちらと。そんなはかない花を前に、俺は足を止めざるを得なかった。

バスの多い街

西新宿近辺はバスが多い。
都バスや、国際興業バスなどだけではなく、ありとあらゆる場所からやってくる高速バス、観光バス、外国人向けの観光バスなど。
外国人向けのバスは、俺らが住むおよそ観光とは縁のないダウンタウンまでにやってくる。
全く困ったものだ。
なんでも、免税店が雑居ビルの中にあるそうで、そんな訳で、西新宿近辺の住宅街は昼になると観光バスの溜まり場になって、空挺部隊のような外国人をバラバラと投下しては走り去るようにいなくなり、時間が来ると強襲揚陸艦の様に路肩に横付けし、彼らを回収して走り去る。
中々手慣れた事をやってくれる。
もし、西新宿のダウンタウンに昼間くる事が在ったら、コンビニなどで彼らに出くわす事になるだろう。
そんなときは、バブルに涌くかれらを観光するに限る。
俺らも数年前までは、そういう生暖かい目で見守られていたのだろうから。
ただ、そこにある生活は壊さないでほしいものだ。
免税店ももっときらびやかな場所で観光とともに在ってほしいものだ。
観光客らも、何もする事の無い場所で突如おろされて困惑しているものもおり、とにかくお互いにあまりハッピーではないことは間違いない。
ビジネスありきだから仕方ないのだろうが、どうにかしてほしいものだ。

2007年の夏だ

久々に北海道に行く。
ツールド北海道の一般の部に出場していた頃からだから、およそ10年ぶりくらいになるだろうか。
初めて行く稚内。
寂れた感じのある町だが、夜空の澄み渡る空気は心洗われるものがあった。
このそらは、その夜へと続く始まりの頃。
温泉場を外にでてバスを待つつかの間の時間に撮影したものだ。

そこには暮らしが在る。

写真を撮るようになって、
はじめは、友達の笑顔と写り慣れない気恥ずかしさや、凛とした気持ちを写していたように思う。
まだ、技術も金もなく、まぁ今も技術も金もそんなにはないのだが、
それだけに良い写真、初々しい写真が撮れていた。
途中色々迷ったが、デジタル一眼を手に入れて少し気が晴れた。
どんなにとっても誰も痛まないし、
どんなにとってもフイルムの終わり、あのギュッとくる巻き上がりがない。
これは、写った絵がわからないから、持てる技術をフルに出そうとする、写せる枚数が全然少ないから必至に構図を考える。
そんな銀塩カメラとの対局にある状態とも考えられる。
2本撮ったら休憩して場所を変えようか?
なんて会話も無くなったし、写真に対する向き合い方はずいぶんとかわったのじゃないかと思う。
いまは、かなり慣れた。
当時写るんですを持ち歩きひっきりなしに写真を撮り歩いていた頃と同じ感覚でデジタル一眼を持ち歩く。
だから、撮るのはスナップが多く。
それでいて、街の風景や、人々の動きが好きだから、
そういう写真がどんどんと増えていったように思う。
夕日や日の出は実は好きじゃない。
一日の多くは日が照っていたり、日が落ちていたり、
暗かったり明るかったりだ。
そして、ギラギラと光を拡散する巨大建築や、
人々の泣き笑いもそういった都市ともにある。
夕暮れを写す名手、それも仕事になるだろうが、
僕は生活や都市の中で息づく何かを撮っていきたいと思う。
街の中には、広場や緑も在り、都市を離れれば植物や虫、動物もある。
そのコントラストやあり方は、生活に緩急をつけ、気持ちよい暮らしを形成していると思う。
僕のできる事は少ないかもしれないが、
また、夕日や朝焼けを時折老いたくなる事も在るかもしれないが、
それでも、平時の中の美というか、ありふれた日常の中の良さを追っていきたいと思う。
驚いた事に、地球の裏側では平時も美の讃歌を謳歌しているところも在り、北の果てでは、燃える空を一面に敷き詰めるのが割と日常なのだと言う。
僕の日常は都市の中に埋没したものかもしれないが、それはそれで良いものだと思いたい。
少しの間、写真をいろいろと出していこうと思う。
旅の写真が今は多いから東京のグレーばかりでは無いのでご安心いただきたい。
いつか、思い出すときも在るだろうし、そのとき考えはまたかわっているかもしれないが、今はこの都市の中の生活が好きだし、
人々の何気ない歩く様などを撮り続けていければと思う。
今日から、少しづつ撮りだめたものを公開していこうと思う。
気になるひとは、足を運んでくれればと思う。
この春もどこかにいくし、夏も、秋も冬も動き続けるだろう。
そんな中で心の機微を込めて色々公開できていければと思う。