モノを捨てる技術

自分に関与するものは残す。

ってやる。って話を書いた。

だがその考えには限界がある。

なんせ時間がかかる。

思い入れを図るのってのはなかなかに骨だ。

 

では、他のアプローチは?ってことになる。

  • 要らないもの、自分に関わりのないものをすてる
  • 一面に広げて必要のない物を捨てる。
  • 場所を移動して要らないものを炙り出す

だいたいこんなところだ。

 

面白いもので自分に関与するかどうかを考えると頭を使うが自分に関わりのないものを探すとなると早い。

場所が許すなら広げて捨てるのも良い。

移動させて捨てるのも実は同義だ。

 

関与するかどうかを考えるのとは違い上記の2つは捨てるのもを顕在化させる技術だ。

場所がなくても箱から箱の移動などでもよい。

あとは、片付かない場合は規格品の箱に押し込むといい。

同じ型のモノだから見た目は悪くない。

空の箱への移動時に捨てるのもが見つかる。

さて、能書きを書いていないで僕も捨てるとしよう。

モノの価値を考える。

引越しを期に物の価値を考えている。

 

捨てる基準にちかいかな?

 

とりあえず、本棚にある色々なもの(本だけでない)を数箱の中に入れることを考えて選別する。

目標は量的な圧縮。

コピーライター、メーカー宣伝部の宣伝マンだったので作品も多い。

 

残すものは

  • 辞書。
  • 好きだった授業のノート。
  • 自分の制作物
  • 写真の紙焼き。(ネガがあってもこの先現像するのかが不明)
  • 画材
  • 使っているガジェット
  • 読みたいテクニック集

どれも自分に関与するものだ。

自分が作ったもの。自分の思い入れのあるもの。心血を注いだもの。

 

逆に捨てるのは

  • 教科書
  • 白紙のノート
  • 雑誌のバックナンバー
  • 価値があると思ってとっていた雑誌

だ。

 

教科書

教科書は勉強する際にその際に最適な新しいものを手にした方が学習しやすい。また、数十年前の常識は既に変わってしまった部分が多く特に経営学などは古典的なことは置いておいてかなりの部分が今様なものに変わってしまっている。
古い話が通用しないから勉強をするのでファンであった授業以外は教科書は捨てる。

白紙のノート

白紙のノートは捨てる。
必要なら買えばよい。
スペースと労力の無駄は削る。

 

僕にとっての価値がなにかがわかった。

この基準がわかっただけでも収穫である。

今後買い物をするときなどに

「自分に関与するかどうか?」を尺度に買えば良い。

また、勉強をするにして「いま勉強しやすい、いま必要なもの」を買えば良い。

なんとなく契約しているWebでのeラーニングなどは解除してしまおう。

更に「将来使うから」とかってものは買わない。

 

商売的に考えれば

  • 将来使いそう
  • 勉強に使えそう
  • あなたに関わりがありますよ

って辺りが引きになるのかも知れない。
ただ、コレは、我に返ったときのものであり、遊興などの牽引する何かではないのもココロに留めておこう。

今回わかったのは

無駄遣いをしないメソッド

なのかも知れない。

心して物を捨て心して物を買おう。

モノがある贅沢モノを持たない贅沢【ライフハック】

モノを持つ贅沢

モノがある贅沢を80年以降に味わってきた。 着るもの家電をはじめ、スキーや海外にも行った。 替えがたい体験と幾つかの物質が手元に残った。

消費は… 価値を物質に変える体験としてとても楽しかった。

そしてその物質を捨てる際にも何か得難い楽しさが有った。 そういうのがモノがある贅沢なんだとおもう。 でもね、いまはちょっと違う。 クルマ?ゴルフクラブ?特にいまは必要無い。

モノを持たない贅沢。

アメリカ人はバッグを持たず行動するのが好きらしい。 バッグを持つのは○○野郎だ!と。 (彼らの意見だ、僕は知らん) …で、バッグを持たないでクルマにぶっ込み行動する。 銃も酒のスキットボトルも、毛布もクルマに。 まぁ、話がそれるのでこの辺で止めるが、とにかくアメリカ人はバッグを持たない。 日本人(都市部限定かな?)はクルマにぶっ込むスタイルは田舎でしか通用しないので、仕方なくバッグを持ってるけど、荷物が少ないことの良さは分かる気がする。

言い換えれば、クルマも必要ないくらい自由な状態だ。

持たない贅沢としてメンタル的な例は、電車に乗るため駅前まで乗ってきた自転車のわずらわしさというか。 都市部限定かもしれないが、家を出ればすぐ目の前にコンビニはあるし、 24時間ずっとあいてるスーパーもある。 都市部の利便性の前にもはやモノがないとやってけないって話はない。 また、カネさえ有ればどこにでも飛んでける自由を確保するには、 クルマでさえも面倒な存在になるなと。 モノを持たない贅沢ってのはあるなと。 それは自由に行動をする事が楽しいことと認識してる人にとって、 刺激的な贅沢かもしれない。 都市にはモノが溢れてる割反面地価が高い。 モノを持つことは不要な場所を広めることに繋がり、意図しないで購入していく贅沢でない購買は時として不合理を生んでいく。 持たない贅沢としては、行動を制限し新しい可能性を減らすことになるなら、積極的にモノを減らすのも潜在的な贅沢なのかも知れない。 ただ、モノを持たない贅沢の弱点といえば、 物理的に物質が残らないから贅沢として認識しずらいことかと。 生まれたての赤ん坊の眩しいまでの可能性みたいに割りと 明確なら良いが危うい存在でもある。 モノがない贅沢を維持するには、断捨離じゃないが、 思い入れの無いものを棄てれば良いだろう。 それにしても、こちらの持たない贅沢ってのは バブルの片鱗を体験した世代には言い難いモノがあるな。 難しい。

…さて、両極の贅沢、 どちらをとりましょうか?

ここまで読んでくれれば分かると思いますが、 両極のどちらを支持するかではなく、程よいバランスが重要なんだなとおもう。 ガンダムのラストにてアムロが 「僕には戻るところが有るんだ…」 と言ったように、物理的な 安全地帯+精神的に繋がれる友人などは必要な刺激なのだろう。 やり過ぎると 「趣味の鉄道模型を全部捨てられた旦那」 の話みたく精神崩壊して、人として成立しなくなるともおもう。 また、人との繋がりにおいて、 趣味やら仕事やら中間物質=媒介物=メディアは必要なようだから、 全部捨てるのはやめた方がいいなともおもう。 (捨てるのがモットーなストイックで素敵なひとがいたのですが、 先日認知症になっちゃいまして…) で、暫時的な、暫定結論としては、

趣味や個人を形成する水準のモノはある程度必要。 モノを必要とする贅沢は限度はあるが肯定する。
モノを持たない贅沢ももちろん肯定する。
好きなことができるよう 「バランスをとっておく」 ってことが暫定の答えかもしれない。

旅が好きか読書が好きか。 料理が好きか、写真が好きか。 たとえささやかであっても、 贅沢は生活を楽しくする素敵なエッセンスだとおもうのでね。 僕はモノが多くなる傾向にあるから、 この連休は買い物にもいくが、 家では捨てる喜びを堪能することとしよう。